今回、交流会を行ってひとつ、実感したのは、放射能を巡る問題は、本質的には、そこに住まう人間の、事故前は普通に行ってきた、自分自身の生活を自分自身で管理する能力を侵害する、という点です。
問題は、自分自身の日常生活であるのに、何をどう対処すればよいのかわからない、という点にあり、そこから、不信、怒り、無力感といった感情も湧いてくるように思われました。
放射性物質が拡散した日常そのものが、自分自身の生活を管理する力を損なうものであるのに加えて、被災地域においては、行政対応、マスメディア等の報道、あるいは、被災地域外からの様々な情報等によって、さらに翻弄される状況になっています。
自己決定権が損なわれている状況、と言い換えられると思います。
住民側から出る声は、大きく3点に大別されました。
1の基礎的な知識面での疑問は、住民に向き合って丁寧に説明していただくことで、ある程度理解と納得が得られたと思います。
ただし、ここで重要なのは、知識のやりとりを媒介としながら、実は、知識そのものは主ではない、という点です。
自分たちがわからないことを、専門家が一度受け止め、それに対して向き合って説明してくれている、と感じる事による信頼関係の構築が重要だったのだと思います。
この過程において、事故以降、翻弄されてきた「シーベルト」「ベクレル」と言った用語への抵抗感が薄れ、専門家に対する信頼感が得られた印象があります。
知識の正確性を重視して、多くのものを注ぎ込んだり、一方通行で知識のみを与えようとするのは、逆効果になると思います。
押しつけは、ただでさえ損なわれている自己決定能力をさらに侵害するもの、と受け止められ、感情的反発を呼ぶからです。
あくまで、住民が求めた疑問に対する回答と、量程度のものであれば十分であるように感じました。
2の長期的な健康影響への懸念ですが、現在わかる限りのデータに基づいた説明をしていただきました。
今回、特に重要であったと感じたのは、医学的、疫学的なデータが示す事実と、それを受け取る側がどう感じるかは、まったく別物である、という事を強調することでした。
たとえば、年間2mSv被曝が増えたとしても、健康への影響は出ないと考えられる、と説明します。
しかし、同時に、それをどのように感じるかは、データや知識とはまったく違う話であり、受け取る側の気持ちは気持ちとして、当然のものである、という事をはっきりと述べる事です。
これもまた自己判断能力の尊重のひとつ、と思います。
どのように感じるかは自由だ、と言う事で、相手の判断を尊重する姿勢を示すのです。
もうひとつ重要であったのは、加えて、健康への影響がないとしても、通常よりも被曝が増えたこの現実は、まったく普通の状態ではないし、それを放置しておいてよいものではない、という事を明確に述べる事でした。
長期的な健康影響も考えられない、と言う話をしただけでは、まだ納得できない、不安そうな表情をしていた方も、 健康への影響がないとしても、対処はしなくてはならないし、減らせるものは減らしていかなくてはいけない、そこまで言うと、安心した表情をされた方が多かったです。
なぜ、このような反応が返ってくるかというと、長期的な健康への影響はない、とデータを示しただけでは、その状況に置かれた人間にしてみれば、この状況をそのまま放置する事を肯定するものに繋がりかねないからです。
現実に、健康への影響はないのなら、何の対策もしなくてもいいのではないか、という人もいます。しかし、それは、正しくありません。
ALARAの原則として正しくない、というだけではなく、ごく普通に暮らしていた住環境が脅かされた状況になってしまった、という住民の状況から考えても、まったく正しくないのです。
このような不利益を得る状況になってしまった現実は肯定されるものではない、そこまで踏み込まなければ、ただ長期的な影響はない、と言っても、住民側のもやもやとした不安感は払拭されないと思います。
どう感じるかは自由、とだけ述べるのでは、突き放した姿勢とも受け取られかねません。
ここで、この現実をそのまま放置するのではない、減らせるものは減らしていこう、と言う事は、被災地域の住民へ寄り添う=連帯する姿勢を明らかにする事になります。
減らしていく方法を一緒に考えてやっていきましょう、と言う姿勢をとることによって、住民側は、自分達の自己決定権を尊重しながらも、寄り添ってくれようとしているのだ、と感じ、それまでの説明内容についても、すんなりと受け容れられるようになる気がしました。
文責:安東量子
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