チェルノブイリから26年後、ベラルーシで見たこと、聞いたこと、会った人」
日時:2013/1/14(月・祝)14:00~
場所:福島県郡山市 郡山市労働福祉会館
(太平洋側に張りだした低気圧の影響で郡山は大雪に。会場駐車場には、開始時間前にはすでに10㎝以上の積雪があった)
ノルウェーの農業に対する影響について
(スライド:チェルノブイリ事故後のヨーロッパの地図。着色により線量分布が示されている。)
ノルウェーでは局地的な汚染があった。ノルウェーの中のヴァルドレス地方。
土地が痩せていて酪農くらいしかできない。
汚染した土地でなぜ酪農をするのかというと、大切な文化とも言っていたが、それくらいしかやりようがない。
風光明媚な場所で、観光は盛ん。日本で言われている風評被害のようなことはなかった。
行ってきたのは食品安全局と保健所。ここだけでなく、ノルウェー各所にいくつかある。
ここで実際に会った保健所勤務アンヌマリーさんのお話。
ヴァルドレスには放射線測定器がなかった。対策をしなければいけなかったが、中央の対策は遅い。
自分たちで計測器を購入して対策を始めた。
(スライド:保健所の放射線測定器)
これが事故後初めて買った放射線測定器(キャンベラ製)様々な核種の同定ができる。
これを背負って、様々な物を測ってまわった。自分たちで対策をした。
(スライド:保健所の食品計測風景。マリネリの写真)
中にはムース(野生のシカの一種)の肉が入っている。
日本では校正用線源が準備されているが、自分たちでムースの胃の内容物から作った校正用線源を作った。1125Bq/Kg Cs137と書いてある。
大きな関心があったのは、もちろん健康への影響。それはどこでも同じ。
そのあと出てきたのは、産業への影響。
今主要になってきているのは、産業(酪農)への影響。
アンヌマリーさんが強調して話していたのは、自分自身で測るということがとても大きかったということ。
保健所に勤務しているので、アンヌマリーさんが周りの人に説明した。周りの人はアンヌマリーさんが話したことによって信用した。
政府などは何か隠しているんじゃないかと思われたが、保健所にいつもいるアンヌマリーさんが言うことによって信用してもらえた。
(スライド:飼料の写真)
塩にプルシアンブルーが入っている。放牧がポイントなので、プルシアンブルーを塩に混ぜて摂取させる。
プルシアンブルーはセシウムの吸収を阻害させる効果がある。
効果は限定的ではあるし、家畜の種類によって排出率も違うが、自分たちで対策することが重要性を持っている。
(スライド:生体放射線測定の機械。羊に測定器を当てている)
これは、生体の放射線を測定する器械。生きたまま肉の測定が30秒でできる。キャンベラが作っているらしいが、これは日本で使われているとは聞いたことがない。
日本で使用したい人がいればキャンベラに問い合わせればいいのに、と思った。
ノルウェーの基準は600Bq/Kg。そのくらいの数値であれば十分測定できる。
(測定時間を長くすれば、日本の基準でも使えるのではないかと、ノルウェー放射線防護調の方は言っていた。)
600以上計測されたら畜舎で指定期間管理し、その後再計測・出荷される。
手間はかかるが、屠殺された後の廃棄はなくなる。
(スライド:飼料の写真)
牧場。ヤギ・羊・牛などはいいが、トナカイは対策が難しい。餌が特殊。地衣類という1年に1ミリしか育たないセシウムの蓄積しやすい植物を食べる。
現代のノルウェーの線量はどの程度なのか測ってみた。さっきの地図でも一番汚染度が高い地区で0.14(μSv/h)くらい。印象的だったのは、非常に合理的に考えられていること。
地元の人が行政と協力している。現場の声がくみ上げられている。
地元の人が言うには、試行錯誤することが重要な経験だったということ。
対策として必要なことは、まず予防すること。その後生体検査をすること。
予防→検査→対策という流れの繰り返し。
若い世代について。
30代の畜産を始めた女性。家畜の放射能検査については当たり前のことだと感じている。現在でもヴァルドレスの人々はノルウェー平均より10倍放射性摂取量が多いのだが、そのことについてどう思うのかと聞いたら、別にどうも思わないという返答が帰ってくる。
日本では風評被害があると言うと、逆にどうして?と聞かれる。
彼らは、自分たちの地域について、とても誇りに思っている。
アンヌマリーさんたちが放射線防護を続ける理由。
周りの人ががんになったときに、放射線の影響が脳裏によぎることはある。しかし、そう思ったときに、自分たちはできることをすべてやってきたのだと思えるように、これが対策を続ける大きな動機となっている。
放射性物質が降ってきて大変だったけど、と言うが、ノルウェーの人は明るい。
事故があった場所から離れているというのもあるかもしれない。
避難区域がなく、精神的軋轢や葛藤がなかったのではないか。
ベラルーシについて
訪れたのは国境近くのブラギン。原発から30~50Kmのところ。立ち入りが難しい。
5キュリー以上だと、行政区分的には「移住する権利がある」移住選択地域。
ベラルーシでは1キュリー/Km2以上だと何らかの放射線対策が必要とされている(1キュリーは3.7×1010Bq)
事故前は産業として食品加工業などの工場があったが、現在は農業が主産業。
事故で工場が維持できなくなった。
(ブラギンで会った方のビデオ映像)
テルマン村、事故後、人口が半分に減った。人口が減りすぎると産業が維持できなくなる。
この方たちは、現在ではヨーロッパからの支援が入り、乳牛で生計を立てている。
Q:故郷に帰りたかったか?
A:帰りたかった
Q:戻ろうと思ったきっかけは?
A:離れる理由はなかったから、帰る理由もない
戻ったのは、9年後。
一度避難した人は多かった。何年かたって戻ってきた人も多い。理由を聞くと「理由はない」戻りたい気持ちがあったから、戻った。
いつ戻るというのは決められていないので、数年経過してから戻る人もいる。
(セレツ村で会った方のビデオ映像)
近所のおばちゃん方
仕事がないから若い人がいなくなっている。将来がなくなっている。住む家もない。新しい家が建つ可能性がない。
前はコルホースに社宅が建てられたが、今はいくつかの農業企業が合併して大きな農業企業。
今の問題は、若い人の職がないということ。ここは大きい工場があったりするが、住む所がない。
事故直後、ベラルーシの出生率は減った。中絶が増えたのではなく、妊娠を控えた人が多かったから。
その後4~5年で出生率が上昇。原因は、なんらかの出生異常等が起きると言われていたが、時間が経ってみても何も起きなかったから。
ミンスクなどの大きな都市では、石棺から放射性物質が出てくるのではないか、とヨウ素剤が売り切れになることがいまだにあるが、ここではそれは問題にされていない。
職がないことやそのほかの問題の方が大きいと言っていたのが印象的。
(ブラギンの放射線安全管理クラブの子供たちの映像)
食品放射線測定器の使い方を説明して貰う。
てきぱきと、土をついたままのじゃがいもをざっくりと切ってマリネリ容器に詰めていく。
重さを量って、計測器の中へ。
計測結果、50Bq/Kgくらい。
学校の中で、現実的な対応を教えている。放射線とはなんぞやということを話してもしょうがない。
5年ごとの放射線分布マップが学校によく飾られている。
汚染状況というのが可視化されている。森の汚染マップもある。
経年ごとのマップがあることで、時間的推移がわかるようになっている。
日本ではこういうマップはネットでは見かけても日常ではあまり見かけない。
掲示することが大事。日本でもすぐできるのでは?
(営林署の写真)
林業が一般の職業の中で一番被曝量が多い。
何度か基準は変わったが、ここ最近は年間1mSvを越えないよう積算線量計をつけていた。
林の中からサンプルを採取し、線量を計測している。
セシウムの量はここで測定するが、チェルノブイリではストロンチウムも高かったので、ミンスクに送って計測している。
1986年の事故後、ソ連崩壊までは断片的な対応しかとられていなかった。
95年くらいからヨーロッパから援助プログラムがきて対策が飛躍的に進んだ。
ベラルーシでもっとも対策が必要になったのは、内部被曝。
WBCで測って、どうやって内部被曝を下げていくかの対策がとられた。
自分たちで対策をし始めたことによって、徐々に被曝量は下げられた。
福島の事故との比較でよく誤解されているのは、91年まではベラルーシは包括的な対策はとられていなかったということ。
事故直後に対策がとられた日本とはずいぶん違う。
ノルウェーは農業に限定されるが、ベラルーシは非常に複雑。
汚染も大きかったし規模も大きかった。
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