1日目は、2016年7月に避難指示が解除された南相馬市小高区の現地見学を、2日目は、南相馬市民情報交流センターにて、ダイアログを行いました。
1日目
常磐線小高駅を集合・スタート地点として、バスに乗車し、地元の方にご案内をいただきました。まず、駅前からまっすぐ伸びる商店街の通りを、震災前の写真と見比べながら、通過しました。小高駅周辺は、津波の被災はありませんでしたが、地震による家屋の倒壊や損壊の被害が多くありました。その修繕もできないまま、原発事故後の立入禁止になり、その間に損壊が進んだため、多くの建物が取り壊され、現在は更地の状態になっているところが目立ちます。かつての賑わっていた頃の写真と見比べると、その差がよくわかりました。その後、飯崎(はんざき)地区で、農業を再開している水谷(みずがい)隆さんから、畑を前にお話を伺いました。水谷さんたちは、震災翌年の2012年11月から復興組合として圃場の草刈りを請け負い、2014年から大豆の実証栽培を始められています。2014年から連続して栽培して、ほとんどすべてがNDであったということです。現在、圃場整備が進められている田も含めて、約12ヘクタールを4~5名で共同で管理していくということです。大豆の栽培から行われたのは、水田に水を引く水路の復旧ができていないからだそうです。このあたりは、浪江町の大柿ダムから水を引いていますが、震災前は「結(ゆい)」という地域のグループによって、それぞれが水路の管理を行ってきました。震災によって避難をしてしまったため、小高に水を通すまでに、震災後まったく管理できていない区間もあり、水田に水を通せなかったということでした。また、この地域でも、人は大きく減ってしまっており、震災前のような管理はできず、今後は、少ない人出で、外部の助けも借りながらどう継続的に維持していくかが課題になっているとのことです。
あと5年のうちに、後継者となる若い人を求めていけるかが大きな問題になる、と言われていました。
避難指示解除後も戻ってきている人たちは少なく、震災前のコミュニティはほとんど消えてしまい、避難先に居を構えた人は、この先も戻ってくることはないだろうと考えている。元のように戻すのは、無理なのではないかと思っていると言われる一方、
風景だけは震災前に戻しておきたい、これが水谷さんが農業を再開された動機なのだそうです。
風景が震災前の美しい農村風景を取り戻して、避難先から戻ってくるにせよ、新たに人が来るにせよ、暮らしたいと思える環境を整えておく、そのために自分は農業を続けたい、と言われていたのが印象的でした。また、作物の風評被害についての質問がありましたが、これまでに作っている大豆も米もすべて飼料用として出荷されており、飼料用は補助金の割合がとても高いため、市場の評価は、現在のところはわからない、とのことでした。
その後、小高地区の東部、山側をバスでまわり、54ヘクタールある大規模な仮置場や、ソーラーパネルが敷設されている状況を見学しました。地元の方でも、少し時間を空けてきてみると、驚くくらいのペースで、ソーラーパネルが敷設されていっており、風景はかつてとは大きく違っていました。
大規模にソーラーパネルが敷設されているのは、もともと田や畑、牧草地であった場所のことが多く、ここの田園風景はお気に入りの場所だったので残念です、とご案内くださった方が言われていました。
午後は、小高復興デザインセンターの村田博さんのご案内で、沿岸の津波被災地域を見学しました。 小高区の震災前人口は、12,800人ですが、2018年2月現在で、住民登録数は、8,600人で、4,000人以上減っています。津波など震災によってお亡くなりになった方に加えて、小高から転出した方もいて、この数字になっているということです。実際に、小高区内で暮らしているのは、2,500人で、おそらく、最終的に4,600人程度は戻って来るのではないかと推測しているとのことです。ただ、震災前人口から比べると、大きく減ってしまう中で、どのように地域を維持していくかが大きな課題であるとのことでした。
午前中に見た仮置場が、小高区最大のもので、午後の津波被災地にあった仮置場は二番目の大きさとのことで約40ヘクタールとのことです。津波被災地では、もともとあった集落が消滅してしまっており、今後も、居住することはできなくなっています。田んぼであった場所も、どのように活用していくのかはこれから決めていくとのことですが、
管理する人が不在となってしまった土地をどのように利用していくかについては、悩ましい問題であると言われていました。浦尻地区の高台から、沿岸を一望しました。堤防工事はほとんど終わっており、現在は、付随する工事が行われているようでした。昔は、このあたりは広い砂浜があり、地域の運動会は砂浜で開かれていたくらいだった、と言われていました。震災前から砂浜はなくなってきていましたが、震災による地盤沈下と堤防で、いまはまったくその面影はありません。 向こう側には、仮設の焼却施設が二基見えます。ひとつは、20km圏内の災害廃棄物、ひとつは20km圏外の除染廃棄物の可燃物を燃やしているとのことです。
福島第一原子力発電所が建設されていた昭和40年代は、この地域からも建設作業に出かけていた人は多くいたそうでした。当時、経済的には、水稲栽培程度しかなく、出稼ぎをする人も少なからずいた中、近場の建設現場は貴重な収入源となったようでした。
続いて塚原地区の高台からも、風景を見ました。海面から10メートル以上はあろうかという高台なのですが、ここまで津波は来ており、ご説明いただいた村田さんのお母様もお亡くなりになられたそうです。かつて120戸460名の方が暮らしていた集落は、現在は、約27戸70名になっています。
震災から時間が経過し、訪れるボランティアの方も減り、 かつての2割から3割になってしまった人口の中で、この先、どう地域を維持していくのか、風化も強く感じる、と村田さんはお話を締めくくられました。
避難指示解除から時間が経過し、戻って来る人と戻ってこない人がわかれる中、もう震災前の人口は望めないなかで、どのような形で地域や暮らしを維持できるのかというところが、問題点と浮かび上がって来ているように感じます。特に、今回、「風景」に関する言葉が多くお聞きしたのが印象的でした。津波被災地は、津波によって元あった景色はまったく失われています。ところが、津波被災地だけでなく、原発事故の被災地域においても、風景がかつてとはまったく違ったものになってしまいつつあるということが今回よくわかりました。そんな中で、農業を通じてかつての原風景を取り戻そうという試みはとても印象的です。震災後、「復興」という大きな流れの中で、多くの人たが突っ走って来た中、ここに来て、本当にこれでよかったのか、と振り返る時期になってきているのだと思います。その中で、最初に見えてきたものが「風景」だったのではないでしょうか。人はどうしてその場所に暮らそうと思うのか。確かに、利便性や病院、職場も重要な要素です。けれど、「風景」もまた大切な要素のひとつだったのではないか、そして、私たちは、そのことをまったく忘れてしまっていたのではないかと、個人的にも痛切に感じさせられました。
文責:安東
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